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シルクカントリー群馬
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シルクカントリー群馬イメージ
検査人館2階の和室。白いドアとの対比が何とも奇妙だ
検査人館2階の和室。白いドアとの対比が何とも奇妙だ

検査人館2階の和室。白いドアとの対比が何とも奇妙だ
掲載日 2009/12/19

世界遺産登録に向けた運動の高まりにつれ、注目度が上がっている本県の絹産業遺産。その建物を建築の視点から見直すと、時代背景や人々の生活観が見えてくる。有名な旧官営富岡製糸場(富岡市)でさえ、和洋折衷を強く残した側面はあまり知られていない。「シルクカントリー群馬の建造物史」を出版した一級建築士、村田敬一さん=玉村町板井=と一緒に、同製糸場の建築的特長を探った。(江原昌子)
◎トラスも特殊な組み方  地元大工と相談、施工?
富岡製糸場といえば、フランス積みのれんがと材木を三角形に組むトラス構造。どこに「和」の要素が…と疑問に思いつつ訪れたのは現在の事務所棟(3号館)の2階。かつて「検査人館」と呼ばれ、生糸の検査担当者が暮らしていた。一般見学者には普段は公開していない。
内部は畳敷きに床の間、ふすまと何の変哲もない和室なのだが、外側のれんが壁やガラス戸とは明らかにつり合わない。南側のドアを開けるともう一つ和室が続き、さらに南は一転して暖炉のある洋間だ。いったいこれは洋風なのか和風なのか、頭が混乱しそうになる。
「もとはすべて洋室だったのを改造したんです」。村田さんが一言で解決してくれた。じゅうたんを畳に替え、北側の壁は取り払って障子にしてしまったのだ。改造時期は不明だが、村田さんは明治の中ごろではないかと推測する。「明治初期の女学校では洋風の礼式を教えていたが、20年代になると和に回帰する風潮が見られる。その流れの中で日本人が住みやすいように模様替えをした可能性もある」と話す。
検査人館は製糸場の操業開始から1年後の1873(明治6)年に建てられたといわれ、設立にかかわったフランス人技師、ポール・ブリュナら外国人は75年にはすべて引き揚げている。当時としては最先端の様式を取り入れてみたものの、生活習慣の違う外国人もいなくなり、やはり畳が恋しくなったのだろうか。
場所を繰糸場へ移し、見学者の撮影スポットにもなっている天井のトラス構造をあらためて見つめる。巨大な梁(はり)が屋根の重みを一身に受けている伝統的な和小屋に比べ、重力が分散するトラスは細い材木で支えることができる。
ただ、村田さんの目から見れば、繰糸場のトラスはもっと細い材木でも問題ないという。また、この形は「キングポストトラス」と呼ばれるが、現在確立されている組み方とは少し違っている。「まだこのころは、ヨーロッパでもトラスの応力分析が完全にはできていなかった。製糸場の設計を担当したフランス人のバスチャンは富岡に集められた地元の大工と相談しながら、慎重に建設を進めたのではないか」とみる。130年以上たった今も原形をとどめているのは、「和洋の技術をうまく融合させた腕利きの職人がいたから」と評価する。
近代以降の建造物を前にすると、どうしても洋風化に着目しがちだが、村田さんは「江戸以前の技術に洋風がどのように入ったのか、和洋折衷の視点で見てほしい。相克がありながらも日本人が文化を取り入れた経緯に考えが及び、建物の歴史を含めた全体像が理解できる」と話している。     ◇
「シルクカントリー群馬の建造物史」はみやま文庫刊。
 むらた・けいいち 1948年玉村町生まれ。工学院大大学院工学研究科博士課程修了。太田工業高、前橋工業高の校長を歴任し現在、県文化財保護審議会委員などを務める。

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