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シルクカントリー群馬
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シルクカントリー群馬イメージ
座繰りの展示を興味深そうに見るフェデリコ教授。シンポジウムでは組合製糸についても触れた
座繰りの展示を興味深そうに見るフェデリコ教授。シンポジウムでは組合製糸についても触れた

1860年から1930年の世界市場におけるイタリア・中国と日本の絹 独自技術で世界を席巻 フェデリコ氏講演
掲載日 2010/02/11
藤岡市の養蚕の歴史と文化を伝えるために「まゆダーマン」出動せよ―。同市の地域活性化グループ「上州ふじおか絵巻の会」(富岡智子会長)が、市をPRする新キャラクターを作った。28日に同会が同市のみかぼみらい館で開く、「第1回『まゆの国』シンポジウム」でお披露目する。
生糸生産は、養蚕農家の労働に負うことが多く、他の天然繊維よりも生産コストが高い。このため生糸は労賃の安い発展途上国で作られてきた。主な輸出国はイタリア、中国、日本。三大輸入国はフランス、ドイツ、アメリカで、伝統的に西洋の富裕国の上流階級で絹は消費された。
1800年ごろまで、欧州とアジアの絹市場は完全に切り離されていた。だが、先進国の所得増加に伴い生糸需要が増えた。19世紀中ごろ、欧州で蚕の伝染病が流行。中国では太平天国の乱が起こった。日本にとって生糸輸出の絶好の機会がめぐってきた。
1860年代から第1次世界大戦の間、西洋の絹需要は3・8倍になった。生産性の向上などで生糸の実勢価格は1920年代に半減した。この間、世界市場で日本のシェアは、1860年代に5%だったが、1900年代は3分の1、20年代は3分の2を占めた。生糸は日本が初めて成功した輸出品だった。
生糸生産は農家が蚕を育て、取れた繭を煮てほぐし、糸をとる工程に大別される。鍵となるのは、生糸価格の80%を占める繭だ。世界市場で競争力を得るには、安い繭を大量に集めることが必要となる。
1870年ごろ、日本、中国、イタリアの養蚕農家に生産性の差はほとんどなかった。一方、製糸技術の面ではイタリアでは蒸気を用いた器械製糸が広まり、品質も生産性も高かった。その技術差を埋めることが中国と日本の課題となった。
シンプルな解決策として日本は西欧の工場を丸ごと輸入する方法を選択した。それが富岡製糸場だ。しかし、導入したフランス式(共撚式)は、イタリア式(ケンネル式)よりも生産性などで劣っていた。なぜ、それでも日本の生糸は世界を席巻できたのか。
最初は技術のコピーだったが、日本人は独自の技術を発明した。煮繭(しゃけん)の方法などを革新し、御法川(みのりかわ)式繰糸機が普及した。結果、1920年代には、イタリアとの生産性格差は解消され、品質差もほぼなくなった。
競争相手の中国も西欧技術をまねたが、技術革新はなく、政治的混乱で産業は停滞した。イタリアでは第1次世界大戦後、乾繭輸入が途絶えたのに加え、ブドウ生産と養蚕が競合した。年1回しか養蚕をしないため生産量が限られた。何よりも、産業の近代化で、農家に高収入の雇用機会が与えられ、つらい養蚕仕事をやめた。
言い換えれば、イタリアの絹産業は、国が豊かになることで衰えた。同じことが第2次世界大戦後の日本でも起きた。生産国の移り変わりは近代産業の発達、経済成長の結果といえる。 ◎会場の声  絹産業史、産業遺産研究に携わる専門家を招いた国際シンポジウムは、欧州からの視点で絹遺産群と養蚕をとらえた発言が相次ぎ、来場者は真剣に耳を傾けた。  伊勢崎市から来た角田三喜男さん(53)は「製糸業の発展について、世界的な視野でとらえることができ、とても面白かった」と感動。石井利子さん(56)=下仁田町=は「富岡製糸場を評価されて、とてもうれしい」と話した。また、東京都北区の諸田浩一さん(38)は「イタリアから群馬の養蚕を考えるということが新鮮だった。富岡製糸場が世界遺産になり、地域のシンボルになることを期待する」と語った。  近藤誠一大使の講演を聴いた関口政雄さん(77)=伊勢崎市=は「世界遺産登録までの過程などが分かりやすく説明され、今後の活動の参考になった」。  シンポジウムの議論を聴いた福田博美さん(57)=前橋市=は「世界遺産登録運動に、碓氷社などの組合製糸の視点も必要。人と人との結びつき、助け合いに普遍的価値がある」と感想を述べた。妻の弘子さんは「実家は養蚕農家だった。日本の絹産業が世界と肩を並べるのに、群馬の労働力が貢献していたことを実感した」と感心した様子だった。  主催 フィールドミュージアム「21世紀の

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