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かつてジョニーウォーカーの黒ラベル、通称ジョニ黒はウイスキーの神様であった。東京オリンピックの頃は、一本1万円もした。1ポンドが1080円の時だから、10ポンドである。
今は2千円で買える。1ポンドが200円だから10ポンドと変わらない。
6月17/18日にルマン24時間レースが開催された。1939年のこのレースに、ジョニーウォーカーの直系の、ロブ・ウォーカーがドライバーとして出場している。
1924年、彼が7歳の時に、休暇をとる両親に連れられて、イギリスの対岸のフランスに滞在した。近くのブローニュという港町で、1週間にわたってレースが開催されており、それを見たロブ・ウォーカー少年は、自動車と自動車レースに夢中になった。
彼が出場した大レースは1939年のルマン24時間レースだけである。
クルマは自分が持っていたフランス製のドライエ135というスポーツカーで、友人のオコンネルと一緒に走った。
午後4時のスタートをオコンネルにまかせ、4時間ごとの交替で走ることにしたので、ウォーカーは午後8時からの走行になった。ちょうど夕食の時間帯であり、彼はディナージャケットを着てレースを走った。
オコンネルが真夜中に走りだしてしばらくすると、排気管のつなぎ目から熱い排気が漏れて、ペダルを焼くようになった。午前4時にクルマを降りたオコンネルは足に火傷をしており、それ以上は運転できない状態であった。ウォーカーの靴は、紐を編んだ厚い靴底がついており、水に浸してから走れば、熱を遮ってくれた。彼は朝の4時から午後の4時まで交替なしで走り、完走して8位になった。
それから第二次世界大戦になって、レースが開催されなくなった。
ウォーカーは結婚する時に、ドライバーを止めるという条件をだされ、戦後はグランプリ・チームのオーナーとしてレース界に復帰した。その頃はクルマを買って出場できた。
彼のロブ・ウォーカー・レーシング・チームのクルマに乗って、名ドライバーたちが活躍した。輝かしい戦績をあげ、ロブ・ウォーカーとの間柄が最も親密だったのが、名手スターリング・モスである。
ロブ・ウォーカー・チームが購入するマシーンは、クーパーやロータスが使っているマシーンよりもやや古かったが、堅実な整備とモスのすばらしい腕前で、マシーンを製作したチームに匹敵する成績をあげた。
モスは1959年のイタリア・グランプリ、1960年と1961年のモナコ・グランプリ、1961年のドイツ・グランプリで、ロブ・ウォーカー・チームに優勝をもたらした。とりわけ1961年の優勝は、強力なエンジンを積むフェラーリを相手にしての優勝であり、グランプリの歴史において名レースと讃えられている。
モスが事故でドライバーを引退した後も、ロブ・ウォーカー・レーシング・チームは活動を続け、ジョー・シファートの運転で1968年のイギリス・グランプリで、チームとして最後の優勝を記録した後、活動をやめた。
その頃のグランプリ・チームはお金儲けのタネにはならなかった。
ロブ・ウォーカーはレーシング・チームを運営することによって、毎年おおきな赤字をだしており、ロブ・ウォーカーが身銭をきって埋めていた。
そして、チーム名はロブ・ウォーカー・レーシング・チームであり、ジョニー・ウォーカーという名前はいっさい出していなかった。
ロブ・ウォーカーの家のジョニー・ウォーカーが、今シーズンからF1マクラーレン・メルセデスのスポンサーになった。マシーンの空気取入口の近くに、マークと名前が描か
れている。25日のカナダ・グランプリのTVで注意して見てほしい。
ルマンに出場し、名手スターリング・モスに活躍の場を提供した、ロブ・ウォーカーの家のウイスキーである。ジョニ黒なんて古いと言われても、胸を張って飲めるのである。
<-- プロフィール -->
高斎 正
こうさいただし
前橋市出身、前橋高校卒業、作家。自動車レースの小説をたくさん書いてきたが、現在は自動車レースの歴史を小説の形で書いている。このために4輪と2輪のレースの歴史を調べており、ときどきヨーロッパに行って昔のロード・レースのコースを貼っている。クルマという機械よりも人間に焦点をあてて調べており、こんなお酒の話がでてくると、お酒を捜して楽しんで飲んでいる。その場合は、<Boire ou conduire, il faut choisir> 飲むなら乗るな、乗るなら飲むな
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